大洋&ヤクルトの元監督“元祖二刀流”関根潤三氏死去…

スポーツ・2020/04/21 20:00 / 掲載号 2020年4月30日号

 プロ野球の大洋(現DeNA)とヤクルトで監督を務め、野球殿堂入りも果たした関根潤三氏が4月9日に老衰のため亡くなった。93歳だった。

 関根氏といえば、常に穏やかで、分かりやすい口調の解説者としても知られた。しかし、グラウンドに立ったときは対照的で、本当は“怖い”指導者でもあった。

「広島のコーチ時代、まだ若い衣笠祥雄氏が夜の街に繰り出すと、宿舎前で腕組みをして待っていたそうです。ようやく衣笠氏が帰って来ると、ひと言、『やろうか?』と発し、素振りをさせました」(NPB関係者)

 普通のコーチなら叱り飛ばしていただろう。だが、関根氏には「お前に期待しているんだ」と訴える“眼力”があり、多くを語らずとも、相手に気持ちを伝えることができたという。

 法政大学時代はエース投手として活躍し、同校を初のリーグ優勝に導き、1950年に近鉄入団。プロでも通算65勝を挙げる一方、非凡な打撃センスも秘めていた。投手、野手の両方で球宴に選ばれたのは有名だ。

「社会人野球に進むことが内定していました。でも、高校と大学時代の指導者であった藤田省三氏が近鉄監督に決まり、その縁でプロ入りしたんです」(同・関係者)

 引退後の70年に広島コーチを引き受けたのも縁だった。高校、大学時代の同級生でもある根本陸夫監督(当時)に誘われた。
「野球で生きていけたのは仲間のおかげ」
 関根氏はそう語ったが、周囲は指導者としての適性にも気付いていたのだろう。
「大洋、ヤクルトの監督時代は若手を積極的に起用しました。いい意味で審判団に嫌がられた監督でもあります。抗議内容は的確で、必ずコーチを2人連れてベンチを飛び出してくる。お供が2人いるから、『黄門サマ』なんてあだ名がありました」(同)

 大洋監督を務めたからだろう。神奈川県の野球を盛り上げたいとし、私的会合も開いていた。
「週刊誌のコメント謝礼? いらないって」

 その代わり「野球界を応援してくれ」と言っていた。深い野球愛を持った人だった。合掌――。

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