美音咲月 2019年7月25日号

俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈沢村忠の真空飛び膝蹴り〉

掲載日時 2015年06月19日 18時00分 [スポーツ] / 掲載号 2015年6月25日号

 “キックの鬼”沢村忠。
 その全盛時の人気は凄まじく、1973年には初めて三冠王を獲得した王貞治を抑えて、日本プロスポーツ大賞を受賞したほどであった。

 そのいかつい顔付きと試合毎キレイにそろえられた角刈りの印象から“ストイックな格闘家”とも思われがちだが、キックボクサーとしてプロデビューする以前には芸能の仕事にも関わっていた。中学3年時には新東宝のニューフェースに合格し、以降何本かの映画やドラマに出演している。
 後に沢村人気が絶頂のころ、ゲストの形で何度か映画やテレビドラマに出演した際に素人離れした演技を披露したのも、こうした下地があってのことだった。

 また高校卒業後には映画スタッフを志して大映に入社している。
 その大映での研修として日本大学芸術学部映画学科へ入学することになるが、これによって沢村の運命は大きく変わった。
 大学でのクラブ活動として始めた剛柔流空手でめきめき頭角を現すと、日本初となるキックボクシング興行の立ち上げ準備をしていた野口修氏のスカウトを受け、プロへの道を歩むことになったのだ。

 結果的には給料を支払いながら大学生活を支えた大映を裏切る形になったが、映画というエンターテインメントの世界で積んだ経験は、その後の沢村に大きな影響を与えることになる。例えば沢村の代名詞である“真空飛び膝蹴り”だ。
 「もともとはデビュー戦で相手のノド元へ決めた飛び上がっての前蹴りを指して“真空飛び蹴り”と呼ばれたのが始まりだった。しかし、これでは語呂が悪いからと“飛び膝蹴り”の呼び名が生まれ、それに合わせて沢村も膝蹴りを出すようになったのです」(キック関係者)

 まず技名ありきで、その後に必殺技を開発するなどは、およそファンを意識せずにはあり得ない。ただ強さを求めるだけの格闘家とは一味違い、こうした姿勢が沢村人気の下支えとなった面は大いにありそうだ。
 1966年4月に大阪府立体育館で行われたデビュー戦、さらに同年6月の2戦目も“空手vsムエタイ”と銘打たれた興行色の強いもので、沢村はいずれも空手代表として道着でリングに上がっている。このとき沢村は既にムエタイをビデオで研究していて、実際の試合での動きもキックボクシングのそれであったが、あえて空手を前面に出したあたりは、やはり話題性を最優先に考えていたことがうかがえる。

 だが、その2戦目において、沢村はさらなる転機を迎えることになる。
 相手のサマン・ソー・アディソンはタイの由緒正しきルンピニースタジアムでフェザー級8位のランカー。そんなムエタイの実力者に対して沢村はまったく歯が立たず、都合16度のダウンを奪われ、4R2分53秒KO負けを喫した。全身に打撲を負い、奥歯も数本折られる完敗だった。

 この敗戦により、沢村は本気でキックボクシングに取り組むことになる。国内ではボクシング技術の習得に励み、これに並行してタイでのムエタイ修行にも取り組んだ。
 そうして'67年、敵地タイで強豪相手のムエタイマッチで引き分けたことを自信とし、ここから沢村の快進撃が始まった。

 以後の活躍は、その記録だけを見ても、とうてい現在の格闘技の常識では計れるものではない。
 毎週のテレビ中継に合わせて少なくとも月間3試合、多いときには月に10試合という過酷なスケジュールをこなしつつ、“100連続KO勝利”“134連勝”等々、前人未到空前絶後の大記録を次々と打ち立てていった。

 '76年7月2日に行われた最終試合までの約10年、通算成績は公式のものだけでも全241戦232勝5敗4分(うち228戦がKO勝利)。実際には、これ以上の試合を闘ったともいわれている。中には、いかにも未熟な相手を一蹴するような試合もあったが、派手な打ち合いから沢村がダウンを喫する場面もしばしば。
 「とんでもない試合数や、ハデな闘いぶりから、沢村の試合を八百長とする声は当時からあったが、いったい沢村以外の誰に同様の闘いができるのか」(前出の関係者)

 唯一無二の偉大な格闘家であったことに間違いはない。

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