菜乃花 2018年10月04日号

人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第33回

掲載日時 2016年09月02日 14時00分 [政治] / 掲載号 2016年9月8日号

 どうしたものか、田中角栄が要職に就くとき、そのポストには常に難問が待ち構えている。郵政大臣ではテレビ局の予備免許問題があり、自民党政調会長のときは日本医師会の保険医総辞退という事態に直面した。また、やがて首相になる直前の通産大臣時には、歴代通産相がそろってお手上げ状態だった、日米間の通商問題最大の懸案だった日米繊維交渉が立ちふさがっていた。田中はそうした直面する懸案、課題を、すべからく解決に持っていっている。
 田中に難しい仕事が回ってくるという運命があったのか、仕事ができるから田中にあえて難しいポストが与えられたのかは不明だが、都合3期3年余に及ぶ大蔵大臣在任中もまた同じであった。IMF(国際通貨基金)の「八条国」移行問題、OECD(経済協力開発機構)への加盟問題に始まり、「山一證券」倒産問題による金融恐慌からの回避、すなわち、批判を浴びながらの「日銀特融」を決断せざるを得なかったということなどであった。

 そうした中で、田中蔵相の最初にして最大の“関門”はIMFの「八条国」移行問題であった。折からの高度経済成長を経て、戦後経済の力を付けつつあったわが国はOECDへの加盟問題と併せ、世界の開放経済体制へ試練の“入り口”に立つということであった。
 ちなみに、昭和20年12月に発効したIMFの協定は原則として外国為替制限を撤廃していたが、開発途上国には協定第十四条の規定を設け、外貨持ち出し制限などの為替制限は為替管理の枠内に置くことを認めていた。しかし、わが国は時にすでに外貨準備が20億ドル近くにもなり、もはや為替制限の恩恵に浴しているわけにはいかなかった。加えて、田中が蔵相就任する前年には、すでに英・西独・仏・伊などの欧州各国が輸入制限は行わないことを“宣言”していたことで、これらの国々は協定第八条、いわゆる「八条国」に移行していた。日本としても「十四条国」にとどまり「八条国」移行にはノーとはいかなかったということである。

 昭和37年9月、蔵相就任から2カ月後の田中は、こうした国際情勢を背に開放経済体制への移行決断のため、米・ワシントンで開かれたIMF第17回年次総会に出席した。日本政府代表として、現地では、日本はこれまで決して国際化への努力を怠っていたわけでなく、世界各国も日本のこうした政策努力を理解してほしいとして、クギを刺すべきは刺しての演説をした。
 「日本は昨年、かなりの国際収支上の国難を経験しております。しかし、輸入自由化についてはかねての方針通り促進に努力、その結果この10月には自由化率は約90%に達しようとしているのであります。一方で、国内の中小企業、農業の均衡を図るには、輸出の伸長にも頼らざるを得ないことは言うまでもありません。従って、日本の輸出に対する差別的輸入制限がなお多く存在していることは、これは速やかに撤廃していただきたいのであります!」
 結果的には、この田中の演説を機にIMF「八条国」移行問題は年が明けた38年2月、IMFによる正式勧告を受け、あらためて田中が勧告受諾の談話を発表したことにより、これをもってわが国はいよいよ貿易自由化、開放経済体制への準備に入ることになった。その上で、翌39年4月、わが国は正式に世界で25番目の「八条国」となったのである。また、一方のOECD加盟問題も、時の池田勇人首相の37年秋の訪欧である程度の地固めが進んでいたこともあり、39年4月にOECDからの正式加盟招請を受けて閣議決定、こちらは世界で21番目の加盟国になったのだった。

 話が多少前後するが、わが国が戦後経済体制から世界の開放経済体制入りを目指すという、晴れてこのIMF年次総会へ出発の直前、目白の田中邸の庭で関係者による壮行会が開かれた。田中は秘書の佐藤昭子に、「オレは神楽坂(注・愛人宅)へ行って、坊主の顔だけちょっと見てから行くから」と言った。もうけた2人の息子に、大蔵大臣としての晴れの“初陣”の姿を見せたかったのかもしれなかった。その佐藤昭子が、その際のこんなエピソードを次のように語っている。
 「田中が神楽坂へ寄っている間、私は一足先に目白に行った。田中の母親フメさんが母屋の二階にいたので『おばあちゃん、一緒に下へ行きましょうよ』と誘うと、フメさんは『いやいや、息子のこんな晴れがましい席にこんな田舎のおばあちゃんが出て行ったんではみっともない。ここにいるよ』と言う。また、部屋の電気がついていないので私がつけようとすると、『電気をつければ、私たちの姿が表から見えてしまう。真っ暗のままで結構ですよ』と言って、二階から壮行会の宴を眺め続けていましたね」

 フメは田中の43年間の全政治生活中、自ら絶対にタクシーには乗らなかった。国民の選良たる息子を産んだ母親として贅沢はできないと自らを律し、昔かたぎの筋を通し続けたのだった。この母にして、この子あり、ということである。
(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。

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