田中角栄「怒涛の戦後史」(17)元社会党副委員長・三宅正一(下)

社会・2020/02/03 06:00 / 掲載号 2020年2月13日号

「オヤジさん(田中角栄)に、『これだけは絶対守れ』と言われたことがあった。『カネを相手に渡す場合、くれてやるという姿勢は間違っても見せるな。カネは、じつは受け取る側が一番つらい。切ないのだ。相手のメンツを重じてやれなくて、どうするということだ。むしろこちらが土下座するくらいの気持ちで、もらっていただくということだ。こうしたカネなら、生きたカネになる』と。だから、あとでこんな声が届くことになる。『角さんから来るカネは、心の負担にならないからいいんだ』と。オヤジさんは、渡したカネのことを口外することも、もとより一切なかった」

 筆者は、長く田中の秘書を務めた早坂茂三(のちに政治評論家)から、選挙の資金援助なども含めた「田中とカネ」について、こう話を聞いたものである。

 田中には「金権」の“代名詞”が付いて回ったが、これは一面ではあったものの全面とは言い難かった。なぜなら、受け取る側の心の負担にならぬことに全神経を使い、渡したあとも一切口外しない。すなわち、“ひけらかす”ことがなかったからだ。

「カネを上手に切れて一人前」との言葉もある。田中のもとに、圧倒的に多くの人が集まったもう一つの側面が、この「カネが上手に切れる」ということだったのである。

 さて、前回の本連載で、選挙において田中と三宅は、同じ中選挙区制時代の〈新潟3区〉で長く社会党と自民党に分かれてシノギを削ってきたが、二人には、時に敵対しつつも同じ郷土の「戦友」「同志」的な意識があり、互いにどこか心を許し合い、畏敬の念を持ち合わせていたと記した。

 その三宅は昭和55(1980)年6月の衆参ダブル選挙で落選、失意の底に突き落とされたが、ここで田中が動いた。何をしたのか。田中の〈新潟3区〉内に張り巡らされた強大無比の後援会「越山会」古参幹部の、こんな証言が残っている。

「じつは三宅さんが落選した直後から、田中はポケットマネーから月々20万円を送り続けていたんです。議員年金はあるが、家の子郎党もいるし、それだけでは厳しいだろうと、生活の心配までしていたということです。田中らしいのは、その“渡し方”だった。三宅に近い人が受け取っていたが、『ワシから出ていることは、絶対に本人に言ってはならん』と“厳命”していた。田中は、恬淡として、三宅さんが亡くなるまでそれをやっていた」

 その三宅は、昭和57年5月、死去したが、ついぞ田中による送金の事実を知らずに亡くなったとされている。しかし、こうした話はいずれどこかで漏れる。やがて、社会党支持者の知るところにもなったようであった。

★「ひけらかさない男」

 三宅の死後から間もなく、田中はロッキード事件一審の裁判で有罪判決(懲役4年、追徴金5億円)を受け、昭和58年12月、7年前のロッキード事件逮捕直後の総選挙に優るとも劣らない苦しい選挙に立ち向かうことになった。

 しかし、田中はこの大苦境の総選挙で、なんと22万票という“お化け票”を獲得、なんとかメンツを保つことができた。選挙後、前出の「越山会」古参幹部が、次のように言ったものである。

「この頃には、三宅さんへの田中からの援助の話が漏れ、社会党支持者の間でも知られることになった。一方で、田中の地元に対する政治的目線が、社会党のそれと大きく変わらないことはすでに知られていた。結果、田中に相当な数の社会党支持票が流れた形になったのです」

 こうした田中の“ひけらかさない”資金援助話は、この三宅に限らずまだある。

 田中が、自民党幹事長の頃の話である。当時、石井(光次郞)派に、長野県出身で参院全国区から再選を目指していた青木一男という議員がいた。青木は高潔、一徹な男だけに、選挙資金には窮々としていた。石井派は、田中には批判的派閥である。その青木と同郷で、のちに首相になる羽田孜が、まだ陣笠代議士だった頃、電話で田中になんとか支援を願えないかと頼んでみたことがあった。

 羽田が「やがて田中先生が総裁選に出ても、石井派だから支持してくれるかどうかは分からないが、選挙資金はまったく底をついているようなんです」と言った途端、電話口でカミナリが落ちたのだった。「バカ者ッ。青木は自民党の宝のような男だ。メシ代もないようじゃしょうがない。青木は落とせん」と。

 田中はすぐ羽田を呼び寄せ、200万円入りの封筒を渡すと言った。「とにかく、これを青木に届けろ。ただし、あの青木のことだから田中からのカネだとは、一切口にしてはならん。おまえがつくったカネだと言っておけ」と。

 羽田は、このときの田中とのやりとりを契機に、それまで以上に田中に傾斜、やがて田中側近を自認することになる。羽田は、のちに筆者が田中の最大の魅力は何なのかと問うと、こう答えたものだった。

「田中先生は人が困っているときは、他派だろうが何であれ、助けに出る。頼まれて、ノーと言えないんだ。そのうえで、『やってやった』とは、口が腐っても言わない。ひけらかすことが、一切ない。この“親分力”に参るということだナ」

 戦後の荒廃、豪雪苦、開発の遅れの新潟の地で、そこからの脱却を目指した田中と三宅。政治家として時に敵対はしたが、目線は共に「人間平等主義」にあった。田中という希代の実力者を育んだ“源泉”は、汗を流し合った三宅の存在だったと言えなくもない。
(本文中敬称略)

***********************************************
【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

関連記事
関連タグ
社会新着記事