☆HOSHINO 2019年6月27日号

田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(上)

掲載日時 2019年05月20日 06時00分 [政治] / 掲載号 2019年5月30日号

 人の人格は、「三つ子の魂、百まで」との俚諺もあるように、おおむね幼少期に出来上がるとされている。とくに、男子の場合は母親の生き様、すなわち「うしろ姿」を見る中で、大きな影響を受けるようだ。「うしろ姿」の受け取り方で、人生が左右されることが少なくないのである。

 もとより、血を分けた子であるから、父親のDNAも引くことは言うまでもない。なるほど、田中角栄は父親の生き様から、競馬好き、錦鯉に興味を示し、“ヤマっ気”また多く、そのDNAを引いたものと思われる。

 一方、田中は、母親をどう見ていたのか。「日の出の勢い」と言われた自民党幹事長の時代に、こう述懐したことがある。
「あの日の母の言葉を絶対に忘れないで、ここまで来ることができた。母あっての私だったと思っている」

 ここで言う「あの日の母の言葉」とは、田中が15歳で青雲の志を抱き、新潟から上京する際の言葉を指している。母は、夫である角次の“つまずき”を諭すかのように、まず「大酒は飲むな。馬は持つな。できもせぬ大きなことは言うな」とクギを刺し、次のような三つの言葉を言い含めたのだった。

 「いいか、人間には休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかなら、働いてから休むほうがいい。また、悪いことをしなければ住めないようになったら、早くこっちに帰ってくることだ。そして、カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人のことは絶対に忘れてはならない」

 後年、馬を持ち、時には大きなことも言った田中だったが、大酒を飲んでわれを忘れることはなかった。三つの言葉は、社会の荒波を乗り切るための最低限の知恵を、母が教えたということだったのである。

 田中の中には、幼少の頃の母の生き様が、常に頭にこびりついていた。父・角次は牛馬商の傍ら養鯉業にも手を出したりしたが、いずれもうまくいかず、次に競走馬を2、3頭連れての地方競馬の“賞金稼ぎ”に転じたが、これもしくじり続きであった。生活が立ち行かぬ中、母が一町歩弱の田んぼを、一人、懸命に耕すことで、かろうじて田中家を支えていた。

 田中は、こうも言っていた。
「私が子供の頃、夜、目を覚まして手洗いに行くと、母はいつも何か仕事をしていた。お母さんは一体、いつ寝るのだろうかと不思議に思ったくらいだ。また、絶対に愚痴を言わない人でもあった。子供にも、仕事を手伝えとは決して言わず、こちらが自分から手伝うまでは、一人、黙々と働いていた」

 無言の母の「うしろ姿」は、感受性の人一倍強かった角栄少年には、強烈な“説得力”があったと思われる。

★「越後線の駅員にでも…」

 母・田中フメは、生まれたとき、「ヒメ」と名付けられた。ところが、村役場が間違えて「フメ」となった。後年、フメは「フメでよかった。いつも田んぼで泥だらけになっているヒメはおらんからなぁ」と苦笑していたものだ。このフメを悪く言う人は、角次への陰口はあっても、誰一人いなかったのだった。

 こんなエピソードがある。

 田中が二田尋常高等小学校に入学して間もない頃、ある日、フメが田中に「アニ(田中のこと)はおじいさんの財布からおカネを取らなかったか」と問いただし、さらに「もし悪いことをしたのなら、お母さんはおまえと一緒に鉄道の線路の上で死にます」とも言ったのだった。

 田中は何のことか分からなかったが、祖父の財布からは取らなかったものの、茶だんすの上に50銭玉が二つ、むき出しで置かれていたのをいいことに、このカネでミカンを一箱買い、近所の友だちにふるまったことを思い出した。

 それを白状すると、祖父はニコニコ笑って、「おまえならいい」と言っていたが、田中はのちにこの時の母の気持ちを、自著でこう臆測している。
「母は他家に嫁してきて、自分の生んだ長男がウソを言ったり、人の物をかすめたりするようなら、母として死ぬほかはないという気持ちだったと思われる。無口な人だが、私にとっては誰よりも恐い人であった」(『私の履歴書』日本経済新聞社)

 ここでの「恐い人」は、もとより畏敬の念が含まれていることがうかがえる。

 田中がのちの昭和22(1947)年の総選挙で、代議士として初当選した直後、フメは新潟の地元記者にこう聞かれたことがある。
「代議士になられたが、それまでお母さんは、せがれさんを何にしたかったのですか」

 フメは、こう答えたのだった。
「越後線の駅員にでもなってくれれば…そう思っていた」

 これに対して、田中は前出の著書の中で、こう母の胸中を推しはかっている。
「長年、苦労した母には、汽笛が『フケイキー、フケイキー』と聞こえる越後線の切符切りでさえ、安定した仕事に映っていたのではなかったか」

 母親というものは、息子がいくつになっても“わが子”である。代議士となった田中は、永田町での階段を駆け上がっていく。

 フメの心配事は、嬉しさの中で逆に広がっていくのだった。
(文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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