中川祐子 2019年1月31日号

非業の死を遂げた名力士 「栃赤城(関脇)」

掲載日時 2018年12月09日 18時00分 [スポーツ] / 掲載号 2018年12月13日号

非業の死を遂げた名力士 「栃赤城(関脇)」
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 力士たちはみんな、自分なりのこだわりを持っている。プライドと言い換えてもいい。

 丸い土俵の中でも、外でも、その自分流を貫き、42歳で亡くなるときも世間を驚かせた関脇栃赤城(本名・金谷雅男)は昭和29年10月31日、群馬県沼田市の呉服店(兄弟3人の次男)に生まれている。

 高校時代の体重がすでに100キロ超。この恵まれた体を活かして柔道に打ち込み、部のエースとして国体やインターハイなどに出場したが、高3のとき名人横綱と言われた春日野親方(元横綱栃錦)に勧誘されると、
「どうせ勉強は嫌いなんだから」
 とあっさりと方向転換し、春日野部屋に入門した。なにごとにも決断が早かった栃赤城らしい入門だった。

 初土俵は昭和48年初場所。相撲経験はほとんどゼロだったが、身長180センチ、体重125キロの恵まれた体と、柔道で鍛えた勝負度胸で出世は早かった。わずか1年半で十両に昇進。その十両でも大勝ちこそしなかったが、着実に勝ち星を挙げ、たった3場所で通過。昭和52年夏場所には早くも入幕している。まだ22歳だった。

 この入幕を機に、それまで本名の「金谷」で取っていた四股名を「栃赤城」に改名した。春日野部屋伝統の「栃」に郷里の赤城山をプラスしたものだった。

 春日野部屋は個性豊かな技能派の力士を数多く輩出し、「技能賞部屋」とも言われているが、栃赤城の相撲にも大きな特徴があった。いわゆる真正面から攻め合う正攻法の相撲ではなく、右上手をとり、あるいは差して半身に構え、相手が前に出てくるところを小手投げ、上手投げ、下手投げ、掛け投げなど、多彩なワザで仕留める変則相撲だった。言ってみれば悪手の見本のような相撲で、勝っても、負けても、親方たちは眉をしかめた。

 これは余談だが、のちに栃赤城が大関候補の一角に名を連ねたとき、師匠の春日野親方はこう言ってため息をついている。

「あんな相撲で大関になれるはずがない。もしなったら、逆立ちして土俵を1周してみせるよ」

 この言葉通り、栃赤城は巡ってきたチャンスをものにできず、大関昇進に失敗。春日野親方は逆立ちして恥をかくことを免れた。

 ただ、まるでサーカスでも見るようにハラハラ、ドキドキさせながら土俵際で鮮やかに逆転勝ちするので、ファンは大喜び。たちまち人気力士の仲間入りを果たし、土俵に登場するたびに喝采を浴びることになった。

 当時の人気大関だったあの貴ノ花も、この栃赤城のサーカス相撲の餌食になっている。

 昭和54年春場所6日目、得意の右半身になった栃赤城が攻めると見せかけて左足をサッと払うすそ払いの奇襲を仕掛けた。これが、ものの見事に決まったのだ。

「なんだ、大関ともあろうものがあんな無様なかっこうで引っ繰り返るとは」

 仰向けにひっくり返された貴ノ花はこう非難され、すっかり面目を失ったものだ。三重ノ海も逆とったりで敗れたことがある。

 こんな“土俵際の魔術師”の頂点とも言える相撲が、この貴ノ花を破って4場所後の九州場所での取組だ。なんと初日に若乃花(2代目)、7日目に三重ノ海、12日目に輪島と、3人の横綱を相次いで破ったのだ。

 当時の栃赤城は西前頭筆頭だったので、いずれも金星になる。1場所3金星はいまだに4人(初代若乃花、元横綱朝潮、栃赤城、大乃国)しか記録していない大快挙だった。

★「タバコを吸いまくり平幕で」

 こうして昭和54年から56年にかけて三役に定着し、大関取りの声もかかったが、残念ながら失敗。足踏みしている間に、下半身のケガや持病の糖尿病の悪化に悩まされ、低迷するようになった。

 昭和57年にはついに十両、3年後には幕下に落ちている。食べ物の好き嫌いが多く、酒好き、ヘビースモーカーなど、私生活でもやり放題で、自己管理がまったくできていなかったのだ。

 この栃赤城の自由奔放な生活ぶりを物語るエピソードがある。あるとき、自分では最後までタバコをやめられなかった貴ノ花が、栃赤城に向かって親切にアドバイスした。
「タバコはやめた方がいい。禁煙すれば、横綱も狙える」
 すると、栃赤城はこう言って断ったのだ。
「禁煙して横綱になるんだったら、タバコを吸いまくって平幕でいた方がいいです」

 ちなみに、貴ノ花に同じことを言われた千代の富士は、そのアドバイスを守ってピタリと禁煙し、31回優勝の大横綱になっている。

 しかし、幕下に落ちてぴたりと勢いが止まった栃赤城だったが、なかなか引退しようとはしなかった。過去の栄光を忘れることができなかったのだ。

 無給の幕下暮らしは、実に4年半、27場所に及んだ。これは三役経験者の最長記録だ。

 最後の場所となった平成2年春場所には三段目に落ちている。関脇経験者の三段目陥落は出羽ケ嶽以来、52年ぶり、史上2人目のワースト記録だった。

 もっとも、ここまで落ちる前に、引退するつもりでいたとも言われている。ところがその頃、師匠の春日野親方が病気になってしまう。
「もう一度、師匠に元気な姿を見てもらいたい」
 栃赤城は、動かない体にムチ打って土俵に上がり続けたのだ。

 春日野親方が亡くなったのは、平成2年初場所4日目の1月10日。この場所後に栃赤城は引退届を提出し、大相撲界を去った(提出が遅れたため、次の春場所まで四股名は載る)。すでに37歳になっていた。

 幕内在位35場所。引退後も親方になって大相撲界に残留できる資格は十分に取得していたが、金銭的にバックアップしてくれるタニマチに取り入ることを嫌い、付き合いを敬遠していたため、年寄株を取得することができなかったのだ。

 このあたりも、いかにも自分流を貫いた栃赤城らしいと言えるだろう。

 こうして相撲協会と縁を切り、本名の金谷雅男に戻った栃赤城は、断髪式も故郷の群馬県前橋市のホテルで行い、実家の沼田市の呉服店の主に収まった。

 まだ独身で、たまにマスコミが訪ねて行くと喜んで取材に応じ、次のように話していた。
「嫁をもらいたいんだけど、こんな田舎にいるとなかなかいい出会いがなくってね。どこかにいい娘はいないかい?」

★自己流を貫いた死に際
 そんな栃赤城の平凡な日常が突然、断ち切られたのは、平成9年の夏の真っ盛り、8月18日のことだった。

 この日、栃赤城はかつての兄弟弟子の山分親方(元幕内栃富士、本名・小暮晴男)と群馬県内のゴルフ場でプレーを楽しんでいた。異変が起きたのは午後1時半頃。18番ホールの第1打を打ち、2人で談笑しながら歩いていたときのことだ。
「わき腹が痛い」
 急に栃赤城がこう言って、うずくまってしまったのだ。その後、いったんは立ち上がって歩き始めたものの、またホールの真ん中付近で「苦しい」と言い出し、そのまま後ろ向きに倒れてしまった。

 すぐさま山分親方がクラブハウスに連絡を入れ、また後ろの組にいた医師が応急手当を施し、救急車で群馬医大付属病院草津分院に運ばれた栃赤城。しかし、わずか1時間半後の午後3時頃、帰らぬ人となった。

 急性心筋梗塞だ。引退からわずか5年、まだ42歳だった。死ぬときも自分流を貫いたのだ。

 このとき一緒にゴルフを楽しみ、栃赤城のあっけない最後をそばで看取った山分親方もまた、6年後の平成15年4月28日にまったく同じ急性心筋梗塞で急逝している。56歳だった。奇しき因縁というべきか。

 こちらは前日の午後4時頃、日課の散歩から自宅に帰った直後に胸の苦しさを訴え、病院に緊急搬送されたものの、翌28日の午前6時45分に息を引き取った。病院に運ばれた直後、連絡をもらってかけつけた大関栃東(現玉ノ井親方)は、こう言った。
「すでに意識はなかったけど、顔を見られただけでもよかった」

 この栃赤城の急死は大相撲関係者に大きなショックを与えたが、その中の1人が1歳年上の横綱北の湖だった。当時、北の湖はすでに引退し、理事になったばかりだったが、
「他人事ではないよ」
 と言って急に健康オタクになり、短期間ではあったが、宴会にもノンアルコールビールを持参するようになった。

 大物食いで鳴らした栃赤城は、死んでまで大横綱を震えあがらせたのである。

相撲ライター・大川光太郎

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