葉加瀬マイ 2018年11月29日号

真夏の特別読み物 幕末志士たちの「精力絶倫」知られざる性豪列伝〈高杉晋作〉

掲載日時 2018年07月26日 22時00分 [エンタメ] / 掲載号 2018年8月2日号

 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

 高杉晋作をこう評したのは、のちに内閣総理大臣となる伊藤博文である。高杉は長州藩に生まれ、吉田松陰が主宰する松下村塾で学ぶ。その後、尊皇攘夷の志士として活躍し、奇兵隊を作り倒幕へと向かった姿は、まさしく雷のようだった。そして高杉は、女性に関しても、雷雨のように激しい情熱を持つ人間だった。
 「安政5年(1858年)、高杉は20歳の時に江戸遊学に出て大橋訥庵の大橋塾で学問をすることになったのですが、その時から“遊郭好き”が解放される。吉原に入り浸りになり、遊女の性技に夢中になって、遊学資金はすぐに底をついてしまったといいます」(前出・近世史研究家)

 高杉は帰郷後の22歳の時、防長一の美女と言われた井上雅(14歳)と結婚する。高杉はまだ結婚したくなかったためか、2人の仲はあまりよくなかったようだ。新婚にもかかわらず翌年には再び江戸に出て、剣術稽古をしたり東北遊学を行って、佐久間象山などの知識人と交流している。
 「文久2年(1862年)、藩命により今度は上海へ渡航することになった。ただ、船が長崎で100日間も足止めされ、高杉の下半身はすぐに限界に。長崎の丸山遊郭で芸妓と連日、遊びまくっていたといいます」(同)

 上海から帰国後、高杉は倒幕へ向け過激さを増し、有志を募り奇兵隊を結成した。高杉が最愛の女性・おうのに出会ったのは、そんな頃だった。おうのは下関の遊郭・堺屋の芸妓で、高杉はおうのを身請けし、下関で生活を共にするようになる。おっとりした性格のおうのを、高杉は溺愛したという。
 「ところが攘夷派と佐幕派の両方から命を狙われる事態となり、高杉はおうのを連れて四国に逃げた。その後は、道後の博徒・日柳燕石などを頼り、しばらく身を潜めることになる。そして桂小五郎の斡旋により帰郷すると、再び下関で暮らすようになり、おうのとの蜜月の生活を送ったのです」(同)

 ただ、慶応2年(1866年)には、妻の雅が2歳の長男の手を引いて下関にやってきて、下関で同居すると言い出したという。板挟みとなった高杉は状況を漢詩に詠んで、桂小五郎に相談までしている。
 その時、高杉の体は肺結核がかなり進行しており、慶応3年(1867年)5月に27歳で亡くなった。
 「高杉は三味線が得意で、『三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい』という都都逸を作っています。高杉の本音は倒幕などではなく、実はこの歌のように愛人・おうのとのゆっくりした朝寝を楽しみたかったのかもしれません」(前出・歴史雑誌編集者)

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