「おぐらが斬る!」原爆投下から78年、なぜ原爆は落とされたのか

社会・2023-08-04 18:55
「おぐらが斬る!」原爆投下から78年、なぜ原爆は落とされたのか
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78年前の夏、日本に2発の原爆が落とされた。長崎と広島である。当初の原爆投下候補地は、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17カ所であった。

しかし当時米軍には、原爆はウラン爆弾1個、プルトニウム爆弾2個の計3個しかなかった。そして、プルトニウム爆弾は、構造が複雑なために実験を行う必要があり、広島へ原爆投下のわずか3週間前にニューメキシコ州の砂漠で核実験を行った。

残ったのは2発をどこに落とすか。東京や大阪、名古屋などは、すでに空襲でほぼ壊滅しており、原爆投下後の影響を調べるのに不都合があるため除外された。

そして選ばれたのが広島と小倉であったが、当日、小倉は天候が曇りで長崎に変更された。

当時の広島市の人口は約30万人。通勤や通学の人たちも含めると約35万人がいた。このうち、約14万人が、たった一発の爆弾で犠牲になった。

長崎市の場合、人口約24万人のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。

本来、米国が開発した原子爆弾はナチス・ドイツに使用されるはすであった。しかし原爆の完成を待たずヒトラーは自殺し、ナチス・ドイツは降伏してしまった。よく「日本に投下してドイツに落とさなかったのは、ドイツ人が白人であり日本人が有色人種だから」というが、そういう理由ではない。

実は原爆投下前に米国には「ダウンフォール作戦」という日本本土上陸計画があった。これは1943年のカイロ会議で決められたもので、生物兵器やサリンなどの化学兵器を大量に使って、日本を徹底的に壊滅するというものであり、実行されていたら、史上最大の作戦と言われたノルマンディー上陸作戦をしのぐ大作戦になるはずであった。

この作戦は、第一回目が1945年11月1日に宮崎や鹿児島に大規模にサリンを撒きながら上陸するというもので、米国はこのとき25万人もの米兵の死傷者がでると計算していた。

第二回目は1946年3月1日に、東京上陸する予定であった。この作戦では100万人以上の米兵が参加し、27万人が犠牲になるであろうという計画であった。

この計画を日本軍は察知しており、もし米軍が上陸してきたら男子は15歳~60歳、女子は17歳~40歳までの全員、約2600万人を500万人いる日本軍と合わせ、3100万人の軍隊を作り、全員が玉砕するまで戦わせる『一億玉砕計画』で待ち受けていた。

一方のトルーマン大統領とその側近たちは、米兵がこの作戦で52万人程度の犠牲ですむとは思っておらず、米兵は500万人近く死ぬだろうと予想しており、そこに原爆実験の成功の知らせがあり、原爆投下という米国にとっても日本人にとっても、犠牲の少ない方を選んだと言われている。

もし原爆開発がもう少し遅れていたら、原爆は投下されずより犠牲の大きな「ダウンフォール作戦」が行われていたかもしれない。どちらにせよ、なんともやるせない気持ちだ。

プロフィール

巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。

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