徳川家康が手本にした源頼朝

エンタメ・2022-02-22 18:36
徳川家康が手本にした源頼朝
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「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉がある。ドイツの名相ビスマルクの言葉だ。日本における歴史上の人物にも同じ考えを実行した人物がいる。徳川家康である。

徳川家康は苦労と忍耐を重ねて、徳川幕府を開いたが、そのお手本にしたのが、やはり鎌倉幕府を開いた源頼朝であった。

平安時代、源頼朝の父、源義朝と平清盛はタッグを組み、一緒に後白河天皇VS崇徳上皇の『保元の乱』で、後白河天皇について勝利した。

しかしその後に起こった『平治の乱』で対立。結果、義朝は殺され息子であった源頼朝は、伊豆に流罪となり、やがて成長した源頼朝が平家を滅ぼすことになる。

かねてより源頼朝を尊敬し、鎌倉幕府前半の歴史書である『吾妻鑑』を愛読していた徳川家康は、まずここに着目した。天下分け目の『関ヶ原の戦い』で勝利した家康だが、まだ大阪城には豊臣秀吉の嫡子である豊臣秀頼が生きていた。

家康は豊臣家の石高を65万石の一大名に落としたが、それで済ますつもりは一切なかった。平清盛が源頼朝を生かしたために起こった歴史から学び、豊臣家を根絶やしにすることにしたのだ。

実は平安以前の時代は、政敵に敗れたとしても、必ずしも敵の一族を根絶やしにするということはなかった。それどころか平安時代の大部分である約350年間、公的な死刑すらなかった。流罪や出家で済まされる場合が多かったのだ。

しかし源頼朝やその弟の義経(牛若丸)のように、流罪や寺に預けられて命を長らえた兄弟に、平家は滅ぼされてしまうことになる。

家康は豊臣家を根絶やしにするだけではなく、源頼朝の直系がわずか3代で途絶え、その後、鎌倉幕府の実権を北条家に奪われてしまったことも学び、徳川御三家を作り、血統が途絶えないようにして、270年の徳川幕府の基礎をつくったと言われている。

プロフィール

おぐらおさむ
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、社会問題全般に関心が高く、歴史、時代劇、宗教、食文化などをテーマに執筆をしている。2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。空手五段。

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