公家やくざ 岩倉具視ってどんな人?

社会・2021-07-09 12:25
岩倉具視

岩倉具視

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大河ドラマ『晴天を衝け』にも出てくる公家の岩倉具視(いわくらともみ)。この人、公家にしてはちょっと変わっている。

文政八年(1825)に、貧乏公家・堀河家の堀河康親の次男として生まれ、幼い頃から公家らしくないふてぶてしい態度と顔つきであったという。

14歳のときにやはり貧乏公家の岩倉家に養子に入る。徳川幕府はこれまで公家諸法度やら禁中(宮中)法度などを出し、公家は基本貧乏であった。
しかし公家は荘園時代の名残で、屋敷は広い。岩倉家は屋敷の一室をやくざに貸して賭場にしてテラ銭をとっていたという。岩倉具視の少年時代は、公家ながら自宅が賭場という切った張ったの世界に接していたのである。
これが後々、岩倉の公家らしくない行動に影響を与えたと思われる。

嘉永6年(1825)、ペリー来航のこの年29歳の岩倉具視は関白鷹司政通の下で歌道の弟子となる。鷹司政通に気に入られた岩倉具視は、孝明天皇の侍従となる。下級公家にとって異例な出世であった。

岩倉はこのときから宮廷政治に参加し、下級公家のリーダー的存在になる。岩倉は、和宮と徳川家茂との婚姻をすすめたことで尊王攘夷の過激派から命を狙われるようになる。そのため岩倉は、京都郊外の岩倉村の廃屋に隠れ住むようになる。

天皇の侍従から廃屋に隠れ住むというギャップもすごいが、その間薩摩藩の大久保利通などと通じ、文字通り暗躍。

岩倉の目的は王政復古であったが、その目的は明治維新で成功。維新後、明治政府の首脳となり廃藩置県など、重要法案に携わったり、自ら岩倉使節団として、大久保利通や伊藤博文を引き連れ欧米に赴いたりした。

岩倉具視は、とても公家出身とは思えぬ行動力で明治維新をけん引した維新十傑のひとり。

明治16年(1883)、日本人として初めてがん告知を受け死去。享年59歳であった。

プロフィール

おぐらおさむ
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、社会問題全般に関心が高く、歴史、時代劇、宗教、食文化などをテーマに執筆をしている。2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。空手五段。

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