日の丸の歴史がおもしろい

社会・2022-06-20 19:58
日の丸の歴史がおもしろい
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日の丸、正しくは日章旗。言わずと知れた日本の国旗である。白地に太陽を描いた国旗は美しく、明治時代、フランス政府から「このデザインを売って欲しい」と言われたことがあるくらいだ。もちろん明治政府は、「国旗を売り渡す事は、国家を売り渡す事」と、この申し出を断っている。

日の丸の歴史は古く、『続日本書紀』に文武天皇が新年の祝賀儀式で「日像」の旗を掲げたとあり、これが最古の記録とされている。

またおもしろいのが、源平合戦のときに、勝者源氏が使っていたのが日の丸。敗者の平家は天皇家の旗である赤地に金丸の錦旗であった。

戦国時代、織田・徳川連合軍と武田軍がぶつかった長篠の戦では、織田も徳川も武田も日の丸を掲げて戦っている。豊臣秀吉が朝鮮出兵のときに掲げたのも日の丸であった。
この時代日の丸は正義の象徴であったようだ。

江戸時代になると、将軍家が乗船する御座船(ござぶね)にも徳川家の家紋である三つ葉葵と共に日の丸の幟(のぼり)が使われた。

しかしまだこの時代、日本国において国旗という概念はなかった。それが出てきたのは幕末のロシア帝国やペリーの来航からである。

欧米から外国船がやってくるようになると、日本船と区別するためにも船舶旗を制定する必要が出てきた。徳川幕府としては、徳川家の先祖である新田氏の家紋である「大中黒・新田一つ引き」をヒントに、白地に黒の太い横線を引いた「大中黒旗」を国旗として定めようとしていた。

これに異を唱えたのが、薩摩藩主の島津斉彬である。島津斉彬は「日の丸」を提案。水戸藩主の徳川斉昭も賛成し、日本の船舶旗は日の丸に決定する。

もしこのとき島津斉彬が日の丸案を出さなかったら、日本の国旗は白地に黒の太い横線を引いた「大中黒旗」になっていたかも知れない。

ここでもおもしろいエピソードがある。時は幕末である。徳川幕府と薩摩や長州の討幕軍が戦争をすることになる。このとき徳川軍は日の丸を掲げて戦っていた。

日の丸案を出した薩摩藩は、公家の岩倉具視のアイディアで「錦旗」、錦の御旗、天皇家の旗を掲げたのだ。この旗を相手に戦うということは朝敵、天皇の敵となってしまうため、徳川軍は総崩れになってしまい、徳川軍は敗北してしまうのだ。

さて、勝利した薩長討幕軍は明治政府をひらくのだが、明治政府は日本のシンボルとして、錦旗ではなく日の丸を採用する。ついこの前まで、賊軍となった徳川軍のシンボルとして使われていたのにだ。

実はこの日の丸が日本の国旗として法的に定められたのは、わずか23年前である、それまで日の丸は法的に正式な国旗ではなかった。

1999年(平成11)、「国旗及び国歌に関する法律」の制定で日の丸が正式に国旗となるのである。

プロフィール

巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。

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