信長の兄弟たちの死にざまが凄まじい

エンタメ・2022-09-07 18:51
信長の兄弟たちの死にざまが凄まじい
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NHK大河の『鎌倉殿の13人』を毎週観ているのですが。いや~、身内同士の争いが凄まじい。親が子を殺し子が親を殺す。家族親族同士の殺し合いが続きます。「世界は一家、人類は皆兄弟」とか「家族仲良く」なんて世界ではありません。あの時代の上級武士に生まれなくてよかった。国や家を守るためとはいえ、家族・親族。兄弟同士の殺し合いというのは、当たり前の世の中だったんですね。

さて、時は戦国嵐の時代、戦国一のヒーローといえば、織田信長ですが、信長も含めて12人の男兄弟でした。信長は本能寺で斃れますが、他の兄弟たちの中で天命を全うできたのは3人しかいません。あとは非業の死をと遂げているのです。それをちょっと見てみましょう。

1、織田秀隆(ひでたか)
叔父の家臣に身分が低い武士と間違えられて、弓矢で殺される。享年15歳前後。
2、織田信時(のぶとき)
信時は信長の異母兄弟で兄であるか弟であるかは不明。ある若衆と男色に狂い、ひいきをし過ぎたため、他の家臣の嫉妬を買い謀反され自害。
3、織田信勝(のぶかつ)
信長と次期当主を争い、信長によって暗殺。
4、織田信治(のぶはる)
浅井朝倉連合軍と戦い戦死。
5、織田信興(のぶおき)
一向一揆勢に城を攻められ自害。これが信長の怒りを買い後の伊勢長島の一向一揆大虐殺の原因になる。
6、織田信広(のぶひろ)
伊勢長島一向一揆攻めで討ち死に。
7、織田秀成(ひでなり)
信広と同じく、伊勢長島一向一揆攻めで討ち死に。
8、織田長利(ながとし)
本能寺の変のとき、信長の長男・織田信忠と共に本能寺近くの妙覚寺におり、明智勢に攻められ戦死。
9,織田信長(のぶなが)
革命児信長も、本能寺にて明智光秀の謀反で死す。

と、信長に殺される者あり、信長と共に戦い討ち死にする者あり、誤射で死ぬ者、謀反されて死ぬ者と、戦国時代に生きた武将の厳しさがわかります。

生き残ったのは、信照(のぶてる)、信包(のぶかね)、長益(ながます)だけです。

信照は甥の信雄の家臣として仕え、信包は、現在の兵庫県丹波市の柏原藩の藩祖となり、3万6千石。柏原藩は信包の血が絶え一時天領になりますが、信長の血を引く織田信休(のぶひさ)が2万石に減らされましたが跡を継ぎ、柏原藩は廃藩置県まで続きました。

また、長益は織田有楽斎と名乗って茶人として有名となり、家康から3万2千石が与えられ、4男と5男に分け与え、4男長政が芝村藩(現在の奈良県桜井市)、5男尚長が柳本藩(現在の奈良県天理市、桜井市他)の藩主となり、やはり明治4年の廃藩置県まで続きました。

鎌倉時代といい戦国時代といい、武将たちが生き残るって大変なことだったんですね。

プロフィール

巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。

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