日本人は首狩り族だった

エンタメ・2022-07-16 10:03
日本人は首狩り族だった
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世界を見渡してみると、ほとんどの民族で“首狩り”の風習が見られます。たとえば、フランス革命のときにおけるギロチン台なんてその代表的なものでありましょう。フランスにおいて、ギロチンは1977年まで実際に使われておりました。

日本でも明治12(1879)年まで斬首刑があり、斬られた首はさらし首にされました。

日本人の場合、単に処刑のために首を斬るだけではなく、戦国時代などでは、斬り離した生首を腰にいくつもぶらさげて戦場を走り回っていました。これは、自分がどれだけ戦場で活躍したかを証明するためでもありました。

そのため、戦場では身分の高い武将が敵の前でひっくり返ったりすると、敵の雑兵が数人がかりで競って首を斬り、生首を奪い合ったといいます。

“首狩り族”というと、未開人が人喰いのために人間を殺したり、生首を加工してアクセサリーにしたりというイメージがありますが、日本人はそういった意味ではなく敵の生首に執着する風習があったのです。

ところが、織田信長の場合。桶狭間で今川義元の軍と戦ったとき、信長は部下にいいます。戦場で相手を倒したときも「打ち捨てにすべし」と。

これはどういう意味かというと、当時は敵を倒したときに、倒した相手の首を狩りとり、後で上司に「わたしはこういう手柄を立てました」という証拠にしたのですが、合理主義者である信長は

「敵の首を狩りとっているヒマがあったら戦え、そんなものを持ち歩いているとフットワークが悪くなるだけよ。オレが欲しいのはそんな首ではなく、敵将今川義元の首ひとつ!」
とばかりに、兵士に首狩りを禁止しています。

戦国時代の合戦を描いた絵巻物などには、討ち取った武将の首を槍や刀に刺して運んでいる絵や手に持っている絵が残っていますが、合戦中にそんなもん運んでいたら合理的な戦いになりません。生首の重さは約6キロだといいますから、二つでも12キロ、腰に縛り付けたとしても相当足手まといです。

秀吉の朝鮮出兵のときは、武功の証拠として、最初こそ敵の塩漬けにした首を船で日本に送っていたのですが、やがて鼻や耳をカットして日本に送るようになります。まあ多少はその方が合理的かも。その鼻や耳を供養する耳塚はいまでも京都に残っています。

幕末になると、暗殺者が殺した相手の首を狩り、河原にさらすなどを行っていました。桜田門外の変で襲われた幕府大老の井伊直弼の首も、襲撃者に斬り落とされています。

また、幕府軍と薩長軍の戊辰戦争でも、軍令では敵兵の首級を取らずに進軍するよう命じるものもありましたが、戦闘が一段落すると、首取りがはじまり、また味方の首を取られないように持ち帰るなどの行為があったといいます。

プロフィール

巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。

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